荒井由実の”返事はいらない”がラジオから流れてきた。その時、ひとりの誰かに届くメッセージとは、こういうことなんだと、歌詞が体内に入ってくるのを感じた。と同時に、所在なくはためく幟(のぼり)を思い出した。

それは、「国府津の力」と書かれた幟と、「新しい小田原」と書かれた幟。お店がならぶ軒先きに立てられていた。私が見たのは、二つとも色が褪せていたので、立てられてから時間が経っているだろう。

移住者かつ、商店を営んでいない私は、街の活性化に直接従事していないのだが、この幟の意図について考えてみた。

まずは、ターゲットと目的。
その次に、このメッセージから受け取れるもの。
そして、目的を達成するために、ひとりの誰かに届くとしたらどんなメッセージが考えられるか。

その1、
ターゲットは、住人。
「XXXの力」の目的は、住んでいる街の良さを改めて認識し、普段気がつかない価値を見出し、幸せを感じること。幸せを感じると、周りもその街の良さを間接的に感じるため、街の良さがアピールされる。
「新しいYYY」の目的は、これから街がどんどん新しくなる期待感を伝え、住んでいる人が楽しさを感じる。住人が楽しく暮らしていると周辺も街の良さを感じ、街のアピールになる。

これらの幟をみて住人がメッセージを受け取るとしたら、「XXX(街)」は、「力」があるのだな。ということや、「YYY(街)」は何か「新しい」ことが起こっているんだなということになる。ただし、メッセージを受け取る住人が、どんな力があるか、どんな新しいことがあるかを発信者と共有していなければならない。もしかしたら”伝統”という力を感じる人もいるかもしれないし、”若い”力をその街の力と捉えているかもしれない。このズレを考慮すると、目的を達成するにはより分かりやすいメッセージが可能といえる。

その2、
ターゲットは、観光客や他市からの訪問者。さらに言えば、潜在移住者。
「XXXの力」や「新しいYYY」のいずれの目的も、この街は良い街だという印象を与えたい、と考えられる。しかし、残念ながらこれらの幟からは、どのような「力」があるのか、何が「新しい」のか、までは伝えきれていない。その原因は、「力」や「新しい」の言葉の粒度が大きすぎて、受け取り側の心にイメージが描けないからだ。


“返事はいらない”の歌詞に次の文言がある。

遠く離れたこの街で
あなたのことは知りたいけど
思い出すと涙が出るから
返事はいらない

作詞作曲 荒井由実 1972年 「返事はいらない」

この唄は、あきらかに特定の誰かのことしか念頭になく、年齢や場所などは聴く側には分からない。しかし、当事者の心のゆれや、感情の起伏までイメージでき、さらには、少し意地をはることで現地点になんとか留まっていることが伝わってくる。

メッセージというものは、誰かが経験している状況が濃ければ濃いほど、描写が克明になり、伝えたい相手が限りなく1人に近ければ近いほど、具体性のある言葉を紡ぎ、発信できるのだ。


では、前述の幟の場合、特定の誰かをイメージして、目的を達成するメッセージとは、どのようなものが考えられるだろうか。

ターゲットが潜在移住者の場合、都内からの移住者を想定すると、ターゲットが解決したいさまざまなジョブが考えられる。そのジョブの中から、街が解決できるソリューションを準備し、その内容を幟のメッセージとする。

例えば、

  • 地方移住に自然を求めている人・・・「海と山の国府津」
  • 地元の食材などに敏感な人・・・「国府津産食堂」
  • 安心して暮らせる地域を求めている人・・・「自治会率100%国府津」
  • 子どもを遊ばせる場所を求めている人・・・「公園力の国府津」


現在ある材料だけでなく、ターゲットのジョブを解決するプロセスも経ることで、より強いメッセージが可能となる。

上記の場合、食堂などは、国府津産の食品を準備し、提供できる場所が必要だったり、公園力では、実際に公園の用地が地域の何%なのか、他の地域よりも特色があるのかを検証する必要があるが、冒頭の「XXXの力」と比べて、より興味をひくメッセージとなっている。

このように、ターゲットを1人に絞りきれていない場合や、状況を事細かに描写できていない場合、メッセージは宙を舞い、相手の心にはいるタイミングを逸してしまう。

言葉の粒度が大きすぎると思われる場合は、いま一度、既存のメッセージを手元におき、誰の状況をどう解決しようとしているのかを検証すると改善策へつながると思われる。

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